am2:43の手記2011/02/21
自分にも他人にも厳しさを持っている人が優しい人なのだと、いつも思います。同情は醜い、何食わぬ顔でその場をしのぎながら自分自身や、他人を下劣にするからです。何かしかにおいて劣っているように扱われる者に弱者の自覚が、奴隷のような仕打ちを受けている者に奴隷根性が芽生えた時、彼らは初めて弱者や奴隷に成り下がるように思えます。
同情は時に金になり、時に人を貧困から救います。
きっかけが同情であろうとなかろうと、お金になること、誰かを貧困から救うことは、その事実以上でも以下でもないと僕は考えます。それが善いことか悪いことかは、良い方に転ぶか悪い方に転ぶかは、あらゆる個別の当事者の中にしかないからです。
それなのに、目の前にある出来事よりも先に善悪の雛形が出来上がっている世に言う「常識」というものは、いったい何なのでしょうか。
国が変われば「常識」もまた変わります。街によって、家庭によって、人によって、「常識」は異なります。
「俺には俺の常識がある、だから何をやってもOK!」ということが言いたいのではありません。誰かは自分からすれば絶対的な他人であり、彼らは自分とは異なる「常識」の中で生きているということを「想像」し、異なるということを「肯定」するべきだと僕は思うのです。
我々がどこまでいっても他人であるという自覚は、決して冷たいことではなく、そう思うことで初めて人を尊重することが出来るのではないでしょうか。
「人は人」「みんな違ってみんな良い」という言葉が、なあなあに解釈されていると感じることがこれまでに何度もありました。批判をするのもされるのも恐れるあまりに、何かを拒否したり否定したりすること自体がネガティブなものかのように扱われ、去勢された世界を優しいと感じるようになっているのでしょうか。うげー
例えば、魅力的と感じる物にはしっかりと「素敵だな」と思い、くだらない物にはしっかりと「くだらない」と思うことが自分自身の価値観を、ひいては自分自身の人生を肯定し、引き受けることなのだと思います。(あ、もし「くだらない」とか独り言以外で発言したりするなら全部自分で責任を持ってくださいね。発言をすることにおいて、自分の価値観に他人を巻き込んでいるという自覚なしには、何も批判することは出来ません。それはただの愚痴に成り下がります。)
「これ」を選んだのは自分なのだという自覚さえあれば、どこへいっても自分は自分であり、ここはここです。
話が随分逸れてしまいましたが、本当に気高い者は自分にも他人にも決して同情をしない、という言葉を思い出したのでこういったことをつらつらと書いています。
昔、家なき子というドラマで「同情するなら金をくれ」という台詞がありましたが、それに対しては人それぞれの受け取り方や解釈があると思います。僕には「タダで同情するな、その下劣な趣味をタダで人に浴びせるな。」という言葉に聞こえました。
僕はまだまだ心の強さや想像力が足りないな、自分に甘く、本当の意味で、人に優しくできない。
小林祐介

