am1:02の手記2011/03/13
学生時代に「世界は予め平等に無価値だ」というような言葉をオーバーサイズのスーツを着た教授から教えてもらった。(美味しんぼの鍋対決の回に、ノ貫先生も言っていた、仏の前ではみな同じ。ト)
これは一見ニヒリズム的な諦観の態度のように思われるけれど、ここで大事なのは、事の本質や価値を自分自身の責任をもってして見いだすことであり、それをまた自身の勝ち取ったものと捉えることなのだと、後になってわかった。自分が自分である事の義務、自分自身を全うする事の喜びは、そうやって勝ち取るべきものなのだと。(というか、僕はそれが楽しいんです。)本当の喜びや義務や責任は人から与えられるものではない。そうでなければ自分の全てを誰かのせいに出来てしまう。
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自分が「美しい」と感じる物から、何かしかの方法で「美しさ」を表現することは、ごく当たり前の、自然なことだ。だからこそ、何もないところから意味や価値を見いだすことこそクリエイティブな行為だと思う。よくピープルの波多野くんやケンゴくんと、何処へも辿り着かない論議や討論を荒唐無稽という土俵でアナーキーという手法をもってして行うのだが、まさにクリエイティブだ。とても有意義なイベントさ。(しかし、とある料理番組の「ばぁば」たる鬼才の前では我々のクリエイティブなど、とんだ茶番であり、上には上がいる事を改めて思い知らされた。僕は悔しかったよ波多野くん。)
世間的に意味がないとされることから価値を見いだし、世間的に価値がないとされることから意味を見いだす。自分の中の悲しみを「きっかけ」に、美しい何かを見つけた時、初めてその悲しみを慰める事ができる。きっと解放されはしない、忘れでもしない限りはせいぜい慰める程度だと思う(大事なことだったら僕は忘れたくないけれど)。
しかしそれはすごいことだ。笑い飛ばせる、歌い飛ばせる、ブルース!!
そうなった時に、「悲しみ=美しい」という価値転換、思いこみや勘違いは当然生まれるのだろう。悲しみはどこまでいっても悲しみである。悲しみに自然と美しさがついてまわったら、我々が本当に悲しい時に悲しむ理由が何処にあろうか。
どうしようもない出来事から美しさや光を見いだすのは、とても力のいる事だ。しかしそうでもしないとやってられませんヨということばかりなのが、生きることかもしれない。
僕は意志で生きているわけではない。自分の意志で心臓を動かし、脳や内蔵を働かせているわけではない、勝手に身体が生きようとしている。いくら生きる意志があろうと、死ぬ意志があろうと、我々は「意志によって自動的に」死んだり生きたりはしない。命はどこにあって、何によってもたらされ、失われるのだろう。
どうして生きているのかと考えた時に、身体が生きようとしているから、では足りないだろうか。生物は本質的に生きようとし、自身の利益を目指すのだとしたら、僕にとって大事なのはどうやって生きるかということだ。そこで話は一番最初に戻る。生きることで、自分自身を全うする理由を勝ち取り、それは生きる限り更新されていく。生きることに対して、慢性的な楽観視だけではどうにもならないことも、自分自身が理由なら疑う余地もなく、歩んでいくことが出来る。僕は僕自身をとてもポジティブな人間だと考えているけれど、ポジティブなことはどこまでもシリアスなんだな、とも考える。
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いまでこそ思うのは、僕は歳をとるのをやめたいわけじゃなかった。触れ方のわからない感情の中で、呼び方のわからない想いの前で、ただ窒息しそうなだけだった。独裁者のいなくなった独裁政治で、外という自分に踊らされていただけだったのかもしれない。無知なことは危ういな、僕はたまたまいろんな人に助けてもらっていたのだ。これからも歌い続けよう敢えて。最近あなたの暮らしはどう。
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もやもやとした気持ちをもったまま、地震で壊れたテレビで音声だけを聞いている。どうしてこんなにもどうにもならない出来事があるのだろう。自分が当事者だったときに何を見いだせるだろう。いまはただ途方に暮れるしかないじゃないか。
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「外からの」歌は何の役にも立たない。だからといって音楽の無力さを嘆かない。自分の価値を貶めることで得る居場所や安心感なんて、すぐにボロが出る。僕はいまも自分の音楽のことをいつも通りに考える。それが何の為になるのかって?自分の為にしか僕は音楽をしたことはない。だからこれから起こる全ては自分のせいであり、全て自分で勝ち取ったものだ。そこには、あらゆる関わりに対する惜しみのない感謝をもって。
小林祐介

