無題2009/05/03

刹那的な物事、過ぎた出来事について後から言葉を寄せるのは、(僕以外の誰かの)その触れ方が変わってしまいそうで本当はしたくないのだけれど、今は書いたほうが自分の気持ちに正直だと思うので。
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paraphiliaという作品をつくっている間、そしてそれを発表してから今に至るまで、僕は自分とそれ以外の出来事との距離のことを、自分の意思で、眼や耳を開けるということを、眼や耳を閉じるということを、樹海、意識を逆さに吊るす罠のことを、帰る家、移民の子供のような精神的な在り方のことを、想っていた。
そしてそれは、僕が予想していたより遥かに僕を混乱させた。まるで求心力を持った深い穴のようだ。何かを拒絶することを目的にも手段にもせずして、ただ聖域を祈るということ。
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僕は、僕以外の誰もが何を言っているのかわからなかった。自分がいくら言葉を選んでもそれが他人や媒体というフィルターを通して僕自身を失望させる。活字となった自分の言葉に欺かれるということ、自分の言葉の無防備さ、言葉というものの不便さに、うんざりしてしまった。関わる人が増えれば増えるほど、自分の中の自己責任という機能は薄まっていったように思えた。
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誤解を恐れずに言うならば、paraphiliaは自分のために作った作品である。10代の頃、部屋にこもり一人で宅録をしてアホのように曲を作っていたときのような気持ちで。もちろんそこにはメンバー、スタッフ含め、たくさんの方の助けがあったのである。
自分にとって本当に大事な作品になったことにより、作品が世に出て行く準備をする中でその流れに相反する感情が芽生えた。自分の感性、想い、価値観としての作品が世界に矮小化されていくことへの嫌悪感。
自分の作品が誰かに理解されないこと、誤解が生まれること、そういったものに対する恐れは微塵もない。自分は必要とされる以前から音楽をせずにはいられないし、自信もあるからだ。

ただ、そこに悪意はないにせよ、第三者の誰かによる僕自身と作品に対するあまりに的外れな解釈や誤解が、いかにも「僕自身の解釈」であるような「見え方」や「ごまかされ方」が我満できなかったのである。それがビジネスならばなおのことである、「僕」のフィードバックが「僕自身」を欺くことのないような、透明なメディアはどこにあるんだ。

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ワンマンの公演は、名古屋、大阪を経て、最終日5月1日の東京を終えた。いろいろなことがあったが、なんだかひとつの季節を過ごしたような気持ちである。

僕は胸がいっぱいになってしまった。それはうまく名前のつけられない感情(感情というのも疑わしい)だった。起こった出来事を美化したくもないし、取り繕いたくもない、僕の中でも、あなたの中でも、その瞬間に感じたことがすべてであり、何よりも尊く、本当のことだと思う。
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心のある出来事が少しでもあるという事実が僕を勇気付ける。矛盾してしまうけれど、結局のところ僕は関わってくれた人全てに感謝の気持ちを持っていたいのである。上の方にうだうだ書き連ねたことも(あえて消さないが)、自分の中には在り続けるけれど、ワンマンを終えた今ではどうでもよくなっている。ステージから見た光景に勇気をもらったからだろう。しかし、まだまだである。鉄の意思と、それに耐えうるしなやかで強靭な表現を。うーむ。

僕のことをあるべき姿へ変えていくもの、眼を開けるということを今になって知った(気付いた)ように思える。

関わってくれて本当にどうもありがとう。

小林祐介