ギタイ2011/04/03
「そこから情報を取捨選択」するのは大事だけれど、そこに本当のことがある保証は無い。誰かの意志によって検閲が行われているのなら尚のことだ。嘘の種類を真剣な顔で品定めして暇を潰せても、今は何の役にも立たない。信頼のおけるような身振りの嘘、信用ならない口調の真実。。。
不安で仕方が無い、というよりは、備えるための備えすらない今の状況に苛々してしまう。僕はいま、自分の身体やそれにまつわる未来をどう守れば良いのかが本当にわからない。
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ある側面から物事を見ると、ミュージシャンの善意は一部では免罪符のような形で浸透してしまったように思える。まるで結果も原因も無かったかのように。結果的に、それが災害への手助けになっていれば、誰かに偽善と言われても何でもいいじゃないか。自分がそれを選んだのならそれでいいじゃないか。何かの役に立つ、誰かの為になるのはとても素晴らしいことじゃないか。善意からくる行動を結果的に免罪符たらしめるのは本人の脆弱さからくる「自身を全うすることへの後ろめたさ」だ。堂々としていればいいのに。自分にしかできない自分の表現に誇りや尊厳があるのなら、自身の後ろめたさでそれを汚すべきではない。きつく強く抱きしめるべきだ。
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信じることと、疑わないことは違う。疑うということを知らないと何も信じることは出来ない、それは「状態」ではなく、能動的な「行為」。同様に、平和ボケと前向きな姿勢は違う。
小林祐介

