「今日も生きたね/ブルックリン最終出口」によせて2014/04/02

2013年の11月に“zeitgeist”を発表し、僕はそれから翌年の2月までずっとただ1曲を書こうとしていました。自分なりの“アンセム”がテーマでした。シングルという形で「ブルックリン最終出口」と一緒に発表する曲です。こんなに長い間一つの楽曲を仕上げられなかったのは初めてでした。
“アンセム”というテーマもさることながら「ブルックリン最終出口」が自分にとって特殊な楽曲であるということも、それと関係しています。

「ブルックリン最終出口」はTHE NOVEMBERSの中でも古い曲で、確か20歳の頃に書いた曲だったと思います。
その当時の僕は、暴力やレイプなどの残酷さを描いた映画に取り憑かれていました。参考
物語の中の残酷さも、実際に世の中で起こっている悲惨な出来事も区別が無く、まるで自分事かのようにそれらを激しく嫌悪し、憎み、軽蔑しながら、どうしてもそこから抜け出せずにいました。それがなぜだったのか、はっきりとした理由は未だにわかりませんが、そんな中でこの曲は生まれました。僕にとってこれは強い“架空の執着”と“現実への依存”の歌でした。
時間が経ち、僕の中で“執着”と“依存”は抜け落ちていき、いつしか「ブルックリン最終出口」という楽曲だけが手元に残りました。まるで他人が作ったかのような気持ちになります。(ある意味、過去の自分は他人のようなものですが)
その為、作品化するにあたって歌詞の表記を一部変えてあります。
そして、その「ブルックリン最終出口」で描かれている残酷性への執着や悲惨な世界への諦観を別の視点で歌ったのが「今日も生きたね」です。

「こんな世界でも、美しい事はある。あなたがそれを見出せる限りは。」

そんなことを考えて書きました。
僕は心身の健康や、人生の豊かさに価値を置いています。
何を持って“健康”なのか、何が人生の“豊かさ”なのか。それは生きている人が自分の目で選び、自分の手で勝ち取っていくものだと、僕は思います。
なので、例え僕と他の誰かの“健康”や“豊かさ”が違ったとしても、それは自然な事であり、誰にもそれを奪う権利はありません。しかし、あまりにおせっかいで、お人好しで、図々しい人というのはそれを許しません。
お互いが違うという事を認めず、自分の“健康”や“豊かさ”を他人にも強要します(提案にとどめるのが良心というものです)。それは時に争いを生みます。
「僕達は同じになれる」「きっと話せばわかりあえる」という気の利いた(?)言い方をする人もいるかもしれませんが、それが叶わなかった時、その人は怒ったり悲しんだり蔑んだりします。悪気はないのです。だからたちが悪いのです(どちらもマジだから)。
僕達はどこまでも違ったまま、わかり合えないまま、つるんだり、離れたりします。
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僕達は、他の命(動物でも植物でも)を自分の身体に取り込まなくては生きていけません。それを生まれ持った“業”や“原罪”と呼ぶ人もいます。あらゆる命を尊ぶ上でなら、そういった考え方は豊かさを生む場合もあるでしょう。
しかし、命を食用と愛玩用に分け、その知能程度や外見の愛嬌、ひいてはその生きものが赤い血を流すかどうかで変わるようなご都合主義の“罪”は生の緊張を忘れた欺瞞であり、野蛮な考え方だと僕は思います。
つまり、生きていく為に生きものを食べる限り、誰もが罪人であるとも言えるし、誰にも罪なんてないとも言えます。

僕は、ステーキ肉を美味しそうと思うけれど、歩いている牛を見てもこれっぽっちも美味しそうと思えません。牛が肉になっていくように、生き物が死んでいく様子はどんなものでも胸が痛むな、と思った次の瞬間に蚊を潰したりもします。
クジラは頭がいいから殺すなというのは「馬鹿は殺していい」というのと同じだし、犬や猫は友達や家族にもおもちゃにもなるし、どこかでは豚や牛のように普通に食べられています。

僕達はそれぞれの“感傷”についてあーだこーだ言っているに過ぎません。

その都度、僕達は自分たちにとって気分の良い方、都合の良い方を選びます。
それだけのことです。道徳は水のように流動する。

僕達がどうやってこの世界に生まれてきたのか、どうやって心臓を動かし赤い血を巡らせているのかを、正しく知れば知る程に、世の中の架空の罪や倒錯した感傷を知ります。それすらも娯楽の一つとして楽しめるのが人間です。
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“アンセム”という言葉には賛美歌、祝歌という意味があるそうです。
今の僕は、僕なりに自分の生や未来を祝福しているし、素敵なものや美しいものを讃えて生きていくつもりです。

「こんな世界でも、美しい事はある。僕がそれを見出せる限りは。」

小林祐介